2012年10月16日火曜日

熊野3日目 : 熊野本宮大社旧社地「大斎原」

星降る前夜、直会を終えて迎えた熊野最終日
皆で早起きして裏山にご挨拶した後、大斎原へ

【熊野本宮観光協会HPより】
神が舞い降りたという大斎原。近年はパワースポットとして多くの人が訪れています。
熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にありました。
当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。
江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりでした。
音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清め、神域に訪れたのです。
ところが明治22年(1889年)の8月に起こった大水害が本宮大社の社殿を呑み込み、社殿の多くが流出したため、水害を免れた4社を現在の熊野本宮大社がある場所に移築しました。
かつて多くの人々の祈りを受け止めた大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられています。
大斎原は、現在の熊野本宮大社から500mほど離れています。熊野本宮大社から道路を隔てて、大鳥居(高さ約34m、幅約42m)が見えます。その背後のこんもりとした森が大斎原です。熊野本宮大社から徒歩10分ほどなので、ぜひ訪れてみてください。
また、大斎原は桜の名所としても知られ、鮮やかな春の色に彩られた姿も見ものとなっています。




日本一の大鳥居の真下から、天を見上げ、そして落ちてくる朝露を受けた時のあの不思議な感覚は忘れられないでしょう。
そしてまるで累々と白骨が連なっているような大斎原の静謐な空気も・・・

【み熊野ねっとより抜粋】
熊野本宮大社がもともとあった場所。大斎原(おおゆのはら)。
現在は2基の石祠が祀られているのみですが、とても気持ちのよい場所です。
 本宮大社前のバス停からですと500mほど離れていますが、近年、旧社地近くに日本一の大鳥居(高さ33.9m、横42m)が建てられましたので、場所はすぐにわかると思います。歩いて5分ほどです。
 明治22年(1889年)8月の水害時まで熊野本宮大社は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありました。
 かつての本宮大社は、およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿が立ち並び、幾棟もの摂末社もあり、楼門がそびえ、神楽殿や能舞台、文庫、宝蔵、社務所、神馬舎などもあり、現在の8倍もの規模を誇っていたそうです。
 熊野川音無川に挟まれ、さながら大河に浮かぶ小島のようであったといわれるかつての本宮大社。熊野川は別名、尼連禅河といい、音無川は別名、密河といい、2つの川の間の中洲は新島ともいったそうです。
 江戸時代まで音無川には橋が架けられず、参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければなりませんでした。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。
 精進潔斎を眼目としていた熊野詣。
 その道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場にあたります。そのため、かつては熊野詣といえば音無川が連想されるほど、名を知られた川でした。
 参詣者は、音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づき、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。
 また、本宮・新宮・那智と熊野三山を巡拝し、再び本宮に戻り、それから帰路につくというのが一般的な熊野詣の順路でしたが、最後の本宮参拝の折、熊野の御神符である「熊野午王宝印」と道中安全の護符である「梛(なぎ)の葉」を本宮より頂き、それらを手土産に道者は下向の途につきました。
 ナギは熊野権現の御神木で、その葉は、笠などにかざすことで魔除けとなり、帰りの道中を守護してくれるものと信じられていました。
 ナギはマキ科に属する針葉樹でありながら、幅の広い葉をもつちょっと変わった樹木です。
 幅広の葉といってもやはり広葉樹の葉とは違っていて、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がありません。その一風変わった構造のため、ナギの葉は、縦には簡単に裂くことができますが、横には枯れ葉であってもなかなかちぎることができません。葉の丈夫さからナギにはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があったそうです。
 また、ナギは、他の植物の生育を抑制する働きをもつナギラクトンという化学物質を分泌するそうです。
 葉の丈夫さや他の植物の生育を抑制する力をもつことからナギの葉は魔除けのお守りにされるようになったのかもしれませんね。
 浄土信仰の隆盛とともに繁栄した熊野。
 平安末期以降、熊野本宮は阿弥陀如来の西方浄土と見なされていました。
 生きながら、阿弥陀の浄土に生まれ変わることを目指して、上皇や女院、貴族、武士、庶民達がはるばると、この大斎原まで旅してきたのでした。
 34回と最多の熊野御幸を行った後白河上皇(1127~1189)は、『源平盛衰記』によると、本宮へは34回とすべての回で訪れていますが、新宮と那智は15回。新宮と那智を略して本宮だけを詣でて熊野御幸を済ますこともしばしばあったようです。
 また、鎌倉時代、一世を風靡した浄土教系の新仏教「時衆」の開祖・一遍上人がある種の宗教的な覚醒をしたのもこの地でした。
 「熊野御幸」の時代、そして「蟻の熊野詣」の時代、熊野の中心地はここ大斎原だったのです。
 それが、明治22年の水害により流出してしまいます。
 明治に入ってからの急激な森林伐採が上流の十津川で大水害を呼び、濁流となった熊野川が中洲にあった本宮大社の社殿をも呑み込んだのです。ほとんどの社殿が流出、境内372坪が決壊してしまいました。
 現在の大斎原の森は水害後に植えられた杉が多くを占めていますが、人がそこを聖地として祭るようになった当初は、おそらくはこんもりとした照葉樹林の森であったことでしょう。
 長寛(ちょうかん)元年(1163)から二年にかけて公家・学者が朝廷に提出した熊野の神についての書類をまとめて『長寛勘文』と呼びますが、『長寛勘文』に記載された『熊野権現垂迹縁起』(熊野縁起最古のものと考えられています)によると、
 熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山(ひこさん)に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽(ゆずるは)山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れ、これを、熊野部千代定という猟師が発見して祀った。これが熊野坐神社の三所権現である。
 とあり、イチイという木に熊野三所権現が降臨したと語られます。
 大斎原は、川に浮かぶ森、川面から突き出た森であり、地上のほとんどを原生林が覆っていた時代においても、その周囲を川に囲まれた特異な森の姿は人々に崇拝の念を抱かせたのではないでしょうか。
  いずれにしても、もともと熊野信仰は自然崇拝から生じたものなのでしょうから(那智はへの崇拝から、新宮はその元宮が神倉神社であるとの説を受け入れれば、岩への崇拝から、本宮は川に浮かぶ森への崇拝から)、自然があまりに破壊され過ぎたときに社殿も破壊されるようになっていたのでしょう。今になって考えてみると、自然破壊に対する警報器のような役割を大斎原にあった本宮は果たしたのでした。
 2年後の明治24年(1891年3月)に流出を免れた上四社を現在、高台に遷座。流出した中四社・下四社と境内摂末社は旧社地に2基の石祠を建てて祀りました。東方(向かって右)の石祠に中四社・下四社を祀り、西方(向かって左)の石祠に元境内摂末社を祀っています。
大斎原に祀られている中四社・下四社については下記の通り。

社殿名祭神本地仏
中四社第五殿禅児宮おしほみみのみこと地蔵菩薩
第六殿聖宮ににぎのみこと龍樹菩薩
第七殿児宮ひこほほでみのみこと如意輪観音
第八殿子守宮うかやふきあえずのみこと聖観音
下四社第九殿一万十万かぐつちのみこと文殊菩薩・
普賢菩薩
第十殿米持金剛はにやまひめのみこと毘沙門天
第十一殿飛行夜叉みづはのめのみこと不動明王
第十二殿勧請十五所わくむすびのみこと釈迦如来

 元境内摂末社については次のようなものがありました。
・八百万神社
・滝姫社
・八咫烏社
・地主神社
・音無天神社
・御戸開神社
  今では熊野川は上流にダムができたため水量が減り、音無川もまた旧社地近くではほとんど水が流れていない有り様で、まったく昔の面影がありません。残念なことですが。
 ちなみに地元の人に「大斎原」といってもわからない場合があります。地元の人は大斎原を旧社(きゅうしゃ)とか古宮(ふるみや)とかいいます。
 4/13~15に行われる本宮大社の例大祭では、大斎原が15日のお祭りのメイン会場となります。

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