2012年12月25日火曜日

2013年2月9・10日(土・日)神社おそうじ隊、常陸見参!


★ 2013年巨石磐座参拝シリーズスタート! 

神社おそうじ隊、常陸見参! 鹿島神宮【要石】参拝からスタートします!
    旧暦新月元旦御来光をお出迎えする予定♪
■ 鹿島神宮前高速バス停10時集合予定♪
   行程:鹿島神宮・香取神宮・息栖神社・大洗磯前神社など
■ お申込〆きり:1月16日(水)

 
▲ 参加費 15,000円(清祓ワーク・レンタカー代等含む)
▲ 現地までの交通費+宿泊費+食事代諸費用は個人負担となります

2012年10月16日火曜日

錬達叡々 : 2012.10.14~16 『 神社おそうじ隊 見参! 番外編・熊野』~その7・総括~

2012-12-04 | 神社おそうじ隊 番外編・熊野




悲喜こもごも、実に多彩多様な三日間でした。
そこで展開されるさまざまは、まさに「おそうじ」そのまま。
人がヒトであるということ、そしてそのヒトの深層に優しくたたずむ何か…。
個人的には、「おそうじ隊」のある面での本領が、今回で極まった感もないではありません。

また、この記事では、「熊野=腰」というひとつの概念提起をしました。
御参加いただいた皆様においては、少なくとも読んでいただけていたとは思いますが…。

自らの「腰」は、定まりましたでしょう、か?

何はともあれ…
今回ご同行いただけましたこの御縁に、心よりの感謝を。
そして、御参加いただいた皆様一人一人に、心よりの感謝を。
本当に、ありがとうございました。




『神社おそうじ隊 見参! 番外編』を発想したときに、真っ先に浮かんだのが「伊勢」「出雲」、そして今回の「熊野」でした。

そこに、何か特別な理由があるワケではありません。
しかし、実際にその場と空間に身と心を置くと、奥底からさまざまな「想い」が浮かび上がります。

それぞれ異なる場、違う空間のようでいて、深層で複雑に絡み合う意識のリンケージとでもいえばよいのか…ある一貫した大きな流れのようなものが、漠然としながらもありありと、感じられるのです。

それをさして「神道」というのか…それはいまはわからない。
しかし、個人的には「番外編」のおけるこの三カ所で、明らかにそれまでの「神道」という概念への認識とは違った地点に降り立ったように感じています。



さて…
来年以降、『神社おそうじ隊 見参!』の活動は、さらにヒートアップいたします。
現在決まっているところでは…

まずは一月。
十二日・十三日には、滋賀県・近江八幡の御猟 野乃杜・賀茂神社でのご神事に参列。
八月の「ご当地隊・近江」は、想像を遥かに超える素晴らしい道行きでした。
賀茂神社に現存する古代祭祀跡、そこはこの道行きのなかでも、深く魂に響く神域でもありました。

そして二月。
昨年・今年と重ねてきた神奈川県内での「レギュラー編」は、六月の鎌倉で一旦完了とし、来年より磐座・巨石を基準とした新たな展開へとスケールを拡大。
そのオープニングには、九日・十日常陸ノ國・下総ノ國へ。
鹿島神宮の要石というオープニングアクトに相応しい「場」、そして香取神宮ほか…興味は尽きません。
加えて十日は、旧暦元旦でもあります。
御参加頂いた隊員の皆様と、新年の御来光をお迎えする予定です。

三月には京都。
鞍馬・貴船、そして伏見稲荷へと。
こちらは、けっこうハードな巡拝ロードとなるようですが、さてさて…。

そして、四月。
「番外編」の時期となります。
今回は、いよいよ奈良(大和ノ國)へと見参、です。
神社、そして日本そのものに想いを馳せてみた時に、やはり奈良、そして京都は外せません。
今後もさまざまなスタイルで巡拝することになりますが、「番外編」となる今回は、「山の辺の道」へと、身と心を運びます。


…まずは、ここまで。これ以降も、続々浮かんできています。




「熊野」。
「よみがえり」。

腰の力を決めるものは、さて何か。
それがひいては、「よみがえり」の、礎ともなるもの、かと。。


そして、来る年。
伊勢、そして出雲での「遷宮」。
過去、重なることはなかったといわれるこの一大神事の行われる年でもあります。


「よみがえり」。
何やら大きな流れの、うねりゆく予感。。。


今回も、ありがとうございました

熊野 : 闘鶏神社~羽田航空神社

闘鶏神社
和歌山県田辺市にある神社である。旧称は田辺宮、新熊野。通称:権現さん。
允恭天皇8年(419年)9月、熊野権現(現在の熊野本宮大社)を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。白河法皇の時代に熊野三所権現を勧請した。平安時代末期の熊野別当・湛快(藤原実方の子孫)のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院から寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る。
田辺は熊野街道の大辺路・中辺路(熊野古道)の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参蘢し、心願成就を祈願した。熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。
『平家物語』などによれば、源平合戦の時、湛増は社地の鶏を紅白2色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。このことから「闘鶏権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離の際に鬪雞神社を正式な社名とした。

社殿は6棟あり、それぞれ以下の神を祀る。
西御殿 速玉之男命・事解之男神
本殿 伊邪那美命
上御殿 伊邪那岐命・天照皇大神・宇賀御魂命
中御殿 瓊々杵尊命・鵜草葺不合命・火々出見尊・天之忍穂耳命
下御殿 火産霊命・弥都波能売命・稚産霊命・埴山比売命
八百萬殿 手力男命・八百万神
境内社 : 藤厳神社、玉置神社、弁天神社、戎神社
境外社 : 稲荷神社、八坂神社、恵比須神社、弁天神社、浦安神社
【wikipediaより抜粋】

熊野参詣の最後にご挨拶させていただいたのは、この宮に参詣すれば、中辺路の山中の道を行かなくとも熊野詣でと同じ御利益があると言われ、熊野三山の別宮とも言われる闘鶏神社


 崇敬会の地元の方のご案内によりさらに詳しく説明していただきました。


源義経奉納の笛「白龍」








最後の社までしっかりとご挨拶させていただき(隊長が時々抜けるのも面白く^^)、後は恒例のギリギリ解散搭乗♪♪
そして最後のオオトリ、〆のご挨拶は羽田航空神社参拝。
隊員全員の無事の帰還と旅の御加護のお礼をお伝えし、ようやく解散。
そしてそれぞれが、それぞれの場所へと・・・(羽田からそのまま国際線に移動し熊野神札ごとハワイに飛んだ人もいましたっけ^^;)


総括は隊長記事をご参照くださいませ♪

この熊野おそうじ行脚が、この後どれほどの波を起こしたかは隊員それぞれの胸に@@・・・^^

熊野 : 瀧尻王子

瀧尻王子 和歌山県田辺市にある神社。現在の正式名称は滝尻王子宮十郷神社(たきじりおうじぐうとうごうじんじゃ)。前身は九十九王子の滝尻王子で、五体王子の一つに数えられた(『熊野権現蔵王宝殿造功日記』)。
国の史跡「熊野参詣道」(2000年〈平成12年〉11月2日指定)の一部である。
祭神天照皇大神
日子火能迩々芸命
天忍穂耳命
日子穂々手見命
鵜茅葺不合命
『熊野縁起』(正中元年〈1326年〉、仁和寺蔵)によれば九十九王子の一であった時代には不空羂索菩薩を本地としていた。

滝尻王子は五体王子の一つにかぞえられるだけでなく、複数の参詣記において熊野権現の神域への境界としばしば見なされるように、特別な意味付けが与えられている。滝尻王子から本宮まで続く山中の道は、「御山」、すなわち熊野権現の胎内と見なされた。というのも、滝尻から「水のみ」(高原)へ続く尾根筋は旧くはウラジロガシ、ツクバネガシのうっそうと茂るカシ林であり、そのような原生林に通じる参詣道をたどることにより、一般の参詣者が修験道の山岳修行を追体験しうる空間であったからである。『中右記』においても、滝尻からの山中の参詣道には本宮までの町数を示した卒塔婆(「三〇〇町蘇屠婆」)があると記され、山内結界の地であったことが分かる。

滝尻王子は、熊野九十九王子のなかでもとくに格式が高いとして崇敬されてきた「五体王子」のひとつで、熊野の霊域の入り口とされたとても重要な場所でした。
 富田川(とんだがわ)と石船川(いしぶりがわ)の合流点にあり、「滝尻」の名は、石船川の急流が富田川に注ぐ滝のような水音からきたといいます。
 富田川はかつて岩田川(いわたがわ)と呼ばれ、熊野詣の重要な垢離場(こりば)のひとつでした。
 岩田川は熊野古道「中辺路」を歩く道者が初めて出会う熊野の霊域から流れ出ている川であり、熊野詣の道中で最も神聖視された川であったのです。
 道者が初めて岩田川に出会う稲葉根(いなばね)王子から熊野の霊域の入り口である滝尻王子まで、道者は十何度と岩田川を徒渉しました。
 熊野から流れる清らかな川の流れを徒歩で渡ることで罪業をぬぐいさることができると考えられたのです。
 滝尻王子に入る前にも川の流れに身を浄めなければなりませんが、ここでは岩田川(富田川)と石船川の二つの川が合流しています。仁和寺所蔵の熊野縁起には、
 滝尻で水浴する事は、右河は観音を念じて浴す、左河は薬師を念じて沐す。
 とあるそうで、右の川(岩田川)は観音菩薩の補陀落浄土から落ちてくる水であり、左の川(石船川)は薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる水であると念じて水浴せよ、と滝尻でとる垢離の心構えを記しています。
 岩田川と石船川の清らかな水に心身を清めた後に、道者は滝尻王子の社地に入りました。王子社では、奉幣や経供養、神楽の奉納などがを行われました。後鳥羽上皇の御幸の際には和歌の会も催されました。
 28回もの熊野御幸を行った後鳥羽上皇は御幸の際に所々の王子で和歌の会を催しました。
 その歌会に参加した人々が自分の詠んだ歌を書いて差し出した懐紙を熊野懐紙(くまのかいし)といいます。
 現存する熊野懐紙は30数葉。そのうち11葉が、正治2年(1200)12月6日の滝尻王子での歌会のものだそうです。
 熊野懐紙は、当時の歌人には宝物と珍重され、都で高値で売買されて、後鳥羽院政の収入源にもなったといわれています。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 熊野本宮への道は王子社の横の剣山と呼ばれる裏山にあり、その急な坂道を登っていくと、「胎内くぐり」と呼ばれる穴の開いた岩があり、その上方に乳岩(ちちいわ)と呼ばれる岩屋があります。乳岩に関しては次のような話が伝わっています。
 奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が、妻が身籠ったお礼に熊野参詣した。
 秀衡はその旅に妻を伴う。
 本宮に参る途中、滝尻で、妻はにわかに産気づき、出産。
 赤子を連れては熊野詣はできないと、その夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより、滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続けた。
 子は、山の狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで、両親が帰ってくるまで無事に育っていた。
 この子が後の泉三朗忠衡(いずみさぶろうただひら)である。
 この熊野権現の霊験に感動した秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めたという。
【 wikipedia&み熊野ネットより抜粋 】



 










 





全員で大祓詞奏上
そして天から降ってきたのは♪




熊野 : 熊野本宮大社

熊野本宮大社
熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社。熊野三山の一つ。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)を主祭神とする。
現在の社地は山の上にあるが、1889年(明治22年)の大洪水で流されるまで、社地は熊野川の中州にあった。明治以後、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ、大規模な洪水が引き起こされ、旧社地の社殿は破損した。現在、旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い大鳥居(高さ33.9m、横42m、鉄筋コンクリート造、平成12年完成)が建っている。
「熊野権現垂迹縁起」によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされている。熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされるが、その素性は不明である。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。
家都美御子大神について他にも五十猛神や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係する説もあるがやはりその素性は不詳とされる。
創建:不明(伝崇神天皇代、B.C.33年?)
旧社格:式内社(名神大)、官幣大社(現、神社本庁の別表神社
摂末社:功霊社、祓戸神社、満山社、東石祠など
その他施設:宝物殿
表 熊野本宮大社の社殿・祭神・本地仏
社殿祭神本地仏
上四社第一殿西御前熊野牟須美大神・事解之男神千手観音
第二殿中御前速玉之男神薬師如来
第三殿證証殿家都美御子大神阿弥陀如来
第四殿若宮天照大神十一面観音
中四社第五殿禅児宮忍穂耳命地蔵菩薩
第六殿聖宮瓊々杵尊龍樹菩薩
第七殿児宮彦火火出見尊如意輪観音
第八殿子守宮鵜葺草葺不合命聖観音
下四社第九殿一万十万軻遇突智命文殊菩薩普賢菩薩
第十殿米持金剛埴山姫命毘沙門天
第十一殿飛行夜叉弥都波能売命不動明王
第十二殿勧請十五所稚産霊命釈迦如来

前述の通り、1889年(明治22年)の熊野川水害により熊野川中洲にあった旧社殿は破損し、上四社のみが現社地に再建された。中四社および下四社の社殿は再建されず、旧社地に2基の石祠が建てられた。【wikipediaより抜粋】









本日のメインイベント、神社おそうじ隊が初ご祈祷をお願いしたのが、この熊野本宮大社。
腹に響き渡る太鼓の音と共に、素晴らしい意宣りの空間を隊員全員で体感させていただきました。




耳栓が二つ落ちてました^^
薄墨の「笑」


 ようやく神門をくぐってご挨拶


おそうじ隊皆で御奉賛



八尺鴉ポストに、近江でお世話になった賀茂神社岡田宮司宛に絵馬葉書を投函した直後、なんとその賀茂神社の岡田禰宜より麻田さんの携帯に着信(゜ロ゜; お陰様にて岡崎権禰宜より、改めて御由緒などの丁寧な説明をしていただく事が出来ました!ありがとうございました!それにしても八尺鴉ポスト、スゴイ(つい妖怪ポストと呼んでしまう^^;)

 
駐車場内に掲示してあった震災後の台風十二号による浸水被害の様子は想像以上に爪痕深く・・・
そしてみんなでゆっくりランチタイム