2012年10月15日月曜日

熊野 : 神倉神社

熊野速玉神社摂社:神倉神社
祭神・高倉下命、天照大神
境内社
・猿田彦神社 神倉三宝荒神社
特殊神事
・お燈祭 二月六日夜(旧暦正月六日)に行われる火祭り。
午後五時過ぎ警固、御幣三本、神饌唐櫃、迎火松明、本社神職、助祭員、介釈(二十五人)の行列で、熊野速玉大社より神倉神社へ出発する。 妙心寺に参拝し社務所にて小憩、神職は山上に登山、介釈は中ノ地蔵で上り子を制する。
午後七時過ぎ、斎火を焚き、これを松明に移して宮司祝詞を奏し、迎火松明につけ、中ノ地蔵堂に至り、祈願者各自の松明に点火する。 次に祈願者(上り子)が山上の玉垣内に入り門を閉じる。
暫時して開門すると、急な石段を千数百人の祈願者が一斉に駆け下りる。 次に宮司以下祭員一同は阿須賀神社に至り、奉幣行事をして熊野速玉大社に帰還する。
お燈祭は、「熊野年代記」敏達天皇四年に「正月六日夜神倉火祭始」とあり、神倉、阿須賀、速玉の順に奉幣行事があることから、「熊野権現垂跡縁起」に示す如く、神来臨の道順を毎年復縁する祭礼である。
和歌山県指定無形文化財。
由緒
・新宮市の西端に聳えたつ権現山の南東端、熊野速玉大社の飛地境内となっている神倉山に鎮座している。 御祭神の高倉下命は、神武天皇御東征の時、霊夢の告げにより神剣(建御雷の神より授かる)を得て賊軍を平定したことが記紀に記されている。
 高倉下命は、瓊々杵尊(ににぎ)の兄、饌速日命(にぎはやひ)の御子神で、早くから熊野を統治せられ、後に熊野三党、三山祀官の祖となった神である。
 また、神倉山の峻崖は、日本書紀にある神武天皇が登った天磐盾(あめのいわたて)であると伝えられ、山上の巨岩ゴトビキ岩を神の依り代と仰ぐ原始信仰であり、更に熊野三所大神(早玉、結、家津美御子)が天降り給うた霊所でもある。
 これ故に、神倉山は古代より熊野の祭礼場として神聖視され、熊野の根本であるといわれる。 和歌山県指定の史跡となっている。
 古記録によると、社殿の外の峻崖上に拝殿があり、御供所、満山社、子安社、中ノ地蔵堂などがあった。 明治三年(1870)の颱風で拝殿は倒壊、同四十年(1907)七月に熊野速玉大社に合祀されたこともあったが、大正七年(1918)、岩下に小祠を再建、昭和に入ってから社務所、神橋、大鳥居(山麓)など建築され、社殿、玉垣、鳥居(山上)、鈴門などを新築し今日に至っている。
 山麓の社務所北隣には妙心寺がある。 神倉の中ノ地蔵堂の本願として知られており、慈覚大師の創立と伝えられ、代々京都から公卿息女の入寺を例とした由緒ある尼寺である。 また、山麓から山上に至る自然石の積み上げによる石段は、源頼朝公の寄進と伝えられ、鎌倉時代の貴重な遺物として知られている。

看板見たら、誰もが無言で手に手に土嚢を^^。
両手に二袋ずつのツワモノも^^;



土嚢置き場♪

















磐座信仰の社 【wikipediaより】
神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。
山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られている。この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。
神倉神社の歴史的な創建年代は128年頃と考えられているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。しかし、「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている。

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