2012年10月14日日曜日

熊野 : 日神社

次にご挨拶させていただいたのは
国道42号線脇、富田川沿いにある日神社。
ここで隊長以下隊員改めての自己紹介から♪
そしてここから粛々と始まる全員揃っての二礼二拍手一拝、巡礼の旅。
日神社にちじんじゃ【和歌山県神社庁HPより】
祭神
  • (主祭神)天照皇大神  (配祀神)市岐島姫神 多紀理姫神  多藝都姫神 忍穂耳神  大宮能売神 豊受大神  倉稲魂神 菅原道真公  上筒男神 中筒男神 底筒男神  息長帯姫神 彌都波能賣神  八衢彦神 八衢姫神 久那戸神
    境内社
  • 厳嶋神社 若宮神社 稲荷神社 天満神社 住吉神社 水神社 塞神社
    指定文化財
  • 日神社本殿附棟札(県指定)   津波警告板(県指定)
    由来
  • 六条天皇の御代、仁安二年九月九日(一一六七│平安時代)吉田少将藤原範秀が自ら所有の山林を開拓して伊勢に鎮座坐す天照皇大神の御分霊を奉斎したのに始まる。
    依って此の地名を伊勢谷と稱して現在に至る。
    御分霊は御船にて奉迎し、富田川口に到着神輿を暫時川口の島上に安置して幣帛を供進する。
    この島を名付けて、幣納の島(へいのうのしま│現在は此れを訛りて、へいぞうじま、と呼んでいる)実に由緒深き島にして過ぐる。
    昭和四十一年十月三十日斎行の日神社八百年式年大祭には往古を偲び神輿を「中の浜辺」に神幸して祭礼が執り行われた。
    それを記念して現在も此の島上に鳥居が建立されている。
     範秀は天児屋根命の後裔・藤原淡海公十六世の孫にして敏秀の子孫代々本社に奉仕して現在に至る。
    創建以来、富田十二ヶ村の産土神にして往古は社領も多く社人も十二人あり著名の大社であったが天正十三(一五八五)年の一乱に依り宝蔵・長床・神楽殿・絵馬舎等火災に罹り、社領も召し上げられ社人も自然減員となる。
    本社は創建以来、明治維新に至る社号を「若一王子之宮」と称したが明治に至り神仏分離の際社号を「日神社」と改称された。
     本社の社地は周囲十六町に及びし事は紀伊続風土記にも見え、又、社殿は荘厳美麗を極め当時世人は本社を称して紀州日光と呼び例祭には田楽舞、流鏑馬等の神事のあった事は旧記にも記されているが現在は既に絶える。
     明治以前迄は別当海門寺(倉谷山と称す)大子堂・鐘桜僧坊等・境内にあったが明治四年の廃藩置県の時、廃寺となり海門寺に属する建造物は全て取り壊しの処分となり、社僧も放逐された。

    【境内案内板より】
    県指定文化財
    建造物 日神社本殿 一棟
        一間社隅木入春日造軒唐破風附檜皮葺 附棟札八枚
    社伝によれば、日神社は、仁安2年(1167)吉田少将範秀が伊勢神宮の分霊を奉斎したのにはじまるといわれます。
    現在の本殿は、様式手法からみて、江戸時代後期に再建されたもので、紅梁頭貫ばな支輪等、随所に地方色の強い彫刻を施しており、この地方にすぐれた技術者のいたことが知られます。
    町指定文化財
    建造物 日神社 摂社 若宮神社 一間社隅木入春日造檜皮葺
        日神社 摂社 稲荷神社 一間社隅木入春日造檜皮葺
        日神社 厳島神社    一間社流造銅板葺
    若宮神社、稲荷神社は小規模な春日造神社であり、構造形式はごく一般的なものであります。雲気をはく龍の庇木鼻、笈型を大きくおく背面の妻飾りは立派なもので、本殿の脇をかためるには恥のない意匠をみせています。建造期は、本殿より少し下がって18世紀中期から後期ごろのものとみられます。
    厳島神社は小規模な一間社流造で、千鳥破風、軒唐破風を付けてややはでに見せていますが、細部の意匠はごくおとなしいつくりです。絵様などをみますと、建立年代は本殿とそう変わらない時期と推定されます。
    【紀伊続風土記十九淵村の項より】
    若一王子権現社  境内山周16町
     摂社 住吉社
     末社3社 若宮・稲荷社・弁財天社
     拝殿
    小名伊勢谷にある。荘中朝来帰・堅田の2村を除いた12村の産土神である。社殿は壮麗で、境内も広い。相伝して熊野本宮第四の宮天照大御神を勧請したという。ゆえにこの地を伊勢谷という。この地は古は熊野神領であったのだろう。古は祭日に田楽舞流鏑馬などもあったが、今は絶えてしまったという。文亀元年、元亀3年、文禄5年などの棟札がある。神主を吉田大和といって吉田範秀の後裔だという。社僧1人、禰宜2人がいる。    別当  海門寺 倉谷山
      太子堂  鐘楼  僧坊
    社の境内にある。真言宗古義京仁和寺末である。末寺3ヶ寺が村中にある。












  • 文化財にも指定されている『津波警告板』 文章が生々しいです。
    県指定 有形民俗文化財
    津波警告板
     
    (昭和40(1965)年9月20日指定)
     宝永4(1707)年10月4日の正午に、紀南地方を襲った宝永地震による被害をもっとも正確に記してる資料である。この地震は今日強く注意を呼びかけられている南海地震、東南海地震、東海地震が同時に起こったものと考えられており、歴史上最大規模の地震ともいわれる。縦33.6cm、横60.6cm、厚さ2.1cmの欅の板の墨書されている。これは高瀬村(現 白浜町富田)の村民が自分たちの体験を草堂寺中興第三世松岩令貞和尚に依頼し書いてもらったものである。
     この警告板はもともと飛鳥神社へ奉納されていたものであるが、明治42(1909)年10月の神社合祀の際に現在の日神社へ移管されたものだと考えられる。
    (表面)要約文
     宝永4年(1707)年丁亥夏6月大きさ1寸から1寸余の害虫が無数に発生して稲を喰い荒らし、農民は大変憂慮したが、翌月になると退散した。同年冬10月4日(陽暦10月28日)午の刻(正午頃)大地震が起こり、ゆれること1時間ばかり、大地山河破裂し民屋人家が倒壊破損した。その物凄さは天柱が折れ地軸がくだけるようで、老若男女は天地が傾覆するかと思い、精神が迷乱して死生を知る者は1人も無い。そのような時に海上にわかに鳴りどよめいて白浪が天をつく勢いで山を崩し地をうがった。
     このような時に人々は地震津波の襲来を聞いて驚き騒ぎ、気も魂も身にそわず、はだしで直に小倉山や飛鳥山に逃げ上り身命を全うし、あるいは途中で大波にただよい流され半死半生で山に着き、幸いにして死を免れる者、あるいは家財に心を寄せ家を出ることおくれ濁浪に溺れ没する者百数十人を出した。富田のうち、高瀬、芝、伊勢谷、溝端、高井、吉田、中村、西野(才野)は1軒残らず流出してたちまちにして野原となった。嗚呼、前業のためであるのか、それとも天運のためか、天災とはいいながら前代未聞の珍事である。後代もし大地震があったら必ず津波高潮が来襲するものと知り、早く覚悟して油断してはならない。後人の警めとするため地震津波の状況を記しておくものである。
        宝永四年十月記し了る也。
    右飛鳥宮の裡に納め置く。毎歳祭礼の節中見聞すべし。



     

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