2012年10月15日月曜日

熊野 : 熊野那智大社


 足跡 猫?
 那智黒石



熊野那智大社 【和歌山県神社庁HPより】
祭神

  • (主祭神)熊野夫須美大神(伊弉冉尊)  (配祀神)大己貴命 家都御子大神(素戔鳴尊)  國常立尊 御子速玉大神(伊弉諾尊) 泉津事解之男尊天照大神 天忍穂耳命 瓊瓊杵尊彦火火出見尊 彦波瀲武鸕鷀  草葺不合尊 國狹槌尊 豊斟渟尊埿土煑尊 大戸之道尊 面足尊  建角身命 稲荷大神 道祖神役行者 罔象女神 大山祇神 樟霊神
    境内社
  • 飛瀧神社・御県彦社 児宮 御瀧本祈願所 水神祠 山神祠 樟霊祠
    特殊神事
  • 迎水秘事(1月1日)、二夜三日大祈(1月1日3日)、牛王神璽摺初式(1月2日)、牛王神璽祭(1月2日8日)、手釿始祭(1月6日)、 大檀那追儺式(2月3日)、桜花祭(4月14日)、紫陽花祭(6月14日)、御滝注連縄張替式(7月9日 12月27日)、 扇神与張替式(7月11日)、那智の火祭(7月14日)、氏神祭・紅葉祭(11月14日)
    社宝
  • 國 指定 七件 一、326点  古銅印 一顆(牟婁郡印)  金銀装宝劍拵 一具  那智原始林 約32町歩 天然記念物  那智大滝 約600㎡ 名勝  那智田楽 重要無形文化財  熊野那智大社文書 46巻11冊二帖二枚(1、316点)  熊野那智大社社殿 本殿五棟八社殿一棟 御縣彦社一棟附鈴門透塀一連一棟 重要文化財 県 指定 38件 372点絹本著色熊野権現曼荼羅一帖、熊野権現曼荼羅一幅、那智山宮曼荼羅一帖、那智山古絵図一幅、木造役行者同侍像附錫杖三、熊野那智大社奉納鏡68面、唐櫃一合、大湯釜一口鬼面一面、木造漆塗瓶子二口、御宸翰木牌一片、鉄燈篭一基、神輿(旧宮殿)二基、銅製金鼓(鰐口)一個、銅製疑宝珠三個、銅製篭蓋一個、熊野那智大社奉納鏡類17面、檀那売渡状九巻、先達状其他雑文書一巻、譲状其他雑文書一巻、貢米並に屋敷・敷地売渡状一巻、花山法皇御篭所跡御器物二個、附 石櫃一個、那智山経塚出土遺物水差し一口、滑石五輪等一基経筒一口、青銅水滴一口、和鏡24面、仏三、瓔路三個、ろっ器一個、古銭193枚、山上不動堂跡一件、亀山上皇御卆塔婆建立地跡一件、瀧見堂跡一件、花山法皇御篭所跡一件、中世行幸啓御泊所跡実方院一件 多冨気王子跡一件、那智の樟一本、那智山旧参道の杉並木一件、ヤマザクラの名木一本 枝垂ザクラ一本、モッコクの大樹一本、牛頭一個、熊野那智山祭様式図絵一幅、那智山田楽資料一括九点、那智の火祭一件、木造熊野12所権現古神像15、木造女神坐像1、那智山経塚出土品一括(多数) 町 指定 石燈篭他多数 世界遺産 御本殿域、那智の御滝、那智原始林、大門坂域及び滝道域
    由来
  • 当社社伝に「神武天皇が熊野灘から那智の海岸〝にしきうら〟に御上陸された時、那智の山に光が輝くのをみて、この大滝をさぐり当てられ、神としてお祀りになって、その御守護のもとに、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と記されている。
     千古の老木におおわれた原生林のあいだに光り輝く「那智の御滝」の神秘性はいまも昔もかわることのない姿だと思うが、その御姿を神として崇め祀るお気持は、現実に生きるわれわれにも又通じるものであり、俳人 高浜虚子は「神にませば まことうるはし 那智の滝」と詠んでいる。
    命の根源である水は「命の母」と申し尊んでいる。
    この地方に住む人々は往昔より神としてうやまっていたと伝えられているが、いずれにしても古代よりこの御滝を「神」とし、大自然の主「大己貴命」とし、くにづくりの親神としてお祀りしていたのである。
    つまり、熊野信仰の原点は「那智の滝」にあるともいわれている。
     やがて仏教が伝来し、役小角を始祖とする修験道がおこり、古来の神々と仏とを併せ祀る、いわゆる神仏習合の信仰が行なわれるようになった。
    御滝の御神体である「大己貴命」の化身として「千手観音」をお祀りしてから、お滝を「飛滝権現」というようになった。
     仁徳天皇五(三一七)年に社殿を現在地に移し「夫須美大神」伊弉冉尊を中心に、国づくりに縁の深い神々をお祀りした。
    新宮に「速玉神」(伊弉諾尊)、本宮に「家津御子神」(素盞鳴尊)が祀られるようになって、当社を含めて「熊野三山」と称し、全国約四千余社という熊野神社の御本社になっている。
    熊野信仰の風潮が高まると共に「熊野三所権現」と称され、「蟻の熊野詣」といわれる程に全国から沢山の人々が熊野を目指し、中でも皇室の尊崇篤く、延喜七(九〇七)年十月、宇多上皇の御幸をはじめとして、後白河法皇は三四回、後鳥羽上皇は三一回もご参詣の旅を重ねられ、又、花山法皇は一千日(三年間)の滝篭りをなされたと記録されている。
     「熊野」という地名は「隈の処」という語源から発しているといわれているが、この地は奥深い処、神秘漂う処となり、又、「クマ」は「カミ」と同じ語で「神の野」に通じる地名ということになる。
    即ち、この地は「聖なる処」「神の里」として、全国からの崇敬の地として数多の人々のあこがれの所として栄えた所である。
    明治維新になって「神仏分離令」が出され、それまでの「熊野権現信仰」は「熊野那智大社」、那智の御滝は「別宮飛瀧神社」と称するようになった。
     また、当社の社殿は境内地の北方に位置し、東から順に東西にほぼ横一列に配された第一殿(滝宮)・第二殿(証誠殿)・第三殿(中御前)・第四殿(西御前)・第五殿(若宮)を中心とし、第五殿の西南方に曲折りに第六殿(八社殿)及び御県彦社が東面して並んでいる。
    各社殿の前面、第一殿東面、御県彦社の両脇は、瑞垣で仕切られ、更に、瑞垣の各社殿の正面には、棟門形式の鈴門が付いている。
    この社殿(建築様式)は、昭和四十年に和歌山県重要文化財に指定され、平成七年に国の重要文化財に指定され、大変由緒ある建造物である。
    更に、平成十六年七月一日には「紀伊山地の霊場と参詣道」で、当社は本殿・那智御滝・大門坂・那智原始林等が世界遺産に登録されている。
    (社叢)社有地約一〇〇町歩は吉野熊野国立公園区境内で天然記念物の那智原始林は約三二町歩、又国の名勝たる那智大滝は直下一三三mで古来熊野信仰の中心として山岳修験の霊域でもある。
    (例祭)毎年七月十四日に斎行される。
    一般に「那智の火祭」として有名であるが、古来は「扇祭」といった。
    神武天皇が那智の大滝を大己貴命としておまつりして以来那智山の信仰が育まれ、仁徳天皇五(三一七)年に、那智山中腹に社殿を造営し、伊弉冉尊をはじめ十二所の神々をまつりました。
    この神事を今に伝えるのがこの祭典であります。
    神輿は幅一m、長さ一〇m程の細長い框に緞子を張り、金地に朱の日の丸を描いた扇を組み合せたもの九ヶ所の台、計三十二本、白銅鏡八面、それに「光」・「蝶のひげ」・「縁松」・「檜扇の花」など、飾りつけるために「扇神輿」という。
    この扇神輿を大小一二本の松明(約五〇㎞)でお清めする神事があるが、この大松明の乱舞するさまは、まさに「那智の火祭」という姿そのものである。
    又当日は國の重要無形文化財に指定されている「那智田楽」、田植式、田刈式、又大和舞、那瀑舞、等が奉納される。










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    バズーカ?

     


     
















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