2012年10月16日火曜日

熊野 : 瀧尻王子

瀧尻王子 和歌山県田辺市にある神社。現在の正式名称は滝尻王子宮十郷神社(たきじりおうじぐうとうごうじんじゃ)。前身は九十九王子の滝尻王子で、五体王子の一つに数えられた(『熊野権現蔵王宝殿造功日記』)。
国の史跡「熊野参詣道」(2000年〈平成12年〉11月2日指定)の一部である。
祭神天照皇大神
日子火能迩々芸命
天忍穂耳命
日子穂々手見命
鵜茅葺不合命
『熊野縁起』(正中元年〈1326年〉、仁和寺蔵)によれば九十九王子の一であった時代には不空羂索菩薩を本地としていた。

滝尻王子は五体王子の一つにかぞえられるだけでなく、複数の参詣記において熊野権現の神域への境界としばしば見なされるように、特別な意味付けが与えられている。滝尻王子から本宮まで続く山中の道は、「御山」、すなわち熊野権現の胎内と見なされた。というのも、滝尻から「水のみ」(高原)へ続く尾根筋は旧くはウラジロガシ、ツクバネガシのうっそうと茂るカシ林であり、そのような原生林に通じる参詣道をたどることにより、一般の参詣者が修験道の山岳修行を追体験しうる空間であったからである。『中右記』においても、滝尻からの山中の参詣道には本宮までの町数を示した卒塔婆(「三〇〇町蘇屠婆」)があると記され、山内結界の地であったことが分かる。

滝尻王子は、熊野九十九王子のなかでもとくに格式が高いとして崇敬されてきた「五体王子」のひとつで、熊野の霊域の入り口とされたとても重要な場所でした。
 富田川(とんだがわ)と石船川(いしぶりがわ)の合流点にあり、「滝尻」の名は、石船川の急流が富田川に注ぐ滝のような水音からきたといいます。
 富田川はかつて岩田川(いわたがわ)と呼ばれ、熊野詣の重要な垢離場(こりば)のひとつでした。
 岩田川は熊野古道「中辺路」を歩く道者が初めて出会う熊野の霊域から流れ出ている川であり、熊野詣の道中で最も神聖視された川であったのです。
 道者が初めて岩田川に出会う稲葉根(いなばね)王子から熊野の霊域の入り口である滝尻王子まで、道者は十何度と岩田川を徒渉しました。
 熊野から流れる清らかな川の流れを徒歩で渡ることで罪業をぬぐいさることができると考えられたのです。
 滝尻王子に入る前にも川の流れに身を浄めなければなりませんが、ここでは岩田川(富田川)と石船川の二つの川が合流しています。仁和寺所蔵の熊野縁起には、
 滝尻で水浴する事は、右河は観音を念じて浴す、左河は薬師を念じて沐す。
 とあるそうで、右の川(岩田川)は観音菩薩の補陀落浄土から落ちてくる水であり、左の川(石船川)は薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる水であると念じて水浴せよ、と滝尻でとる垢離の心構えを記しています。
 岩田川と石船川の清らかな水に心身を清めた後に、道者は滝尻王子の社地に入りました。王子社では、奉幣や経供養、神楽の奉納などがを行われました。後鳥羽上皇の御幸の際には和歌の会も催されました。
 28回もの熊野御幸を行った後鳥羽上皇は御幸の際に所々の王子で和歌の会を催しました。
 その歌会に参加した人々が自分の詠んだ歌を書いて差し出した懐紙を熊野懐紙(くまのかいし)といいます。
 現存する熊野懐紙は30数葉。そのうち11葉が、正治2年(1200)12月6日の滝尻王子での歌会のものだそうです。
 熊野懐紙は、当時の歌人には宝物と珍重され、都で高値で売買されて、後鳥羽院政の収入源にもなったといわれています。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 熊野本宮への道は王子社の横の剣山と呼ばれる裏山にあり、その急な坂道を登っていくと、「胎内くぐり」と呼ばれる穴の開いた岩があり、その上方に乳岩(ちちいわ)と呼ばれる岩屋があります。乳岩に関しては次のような話が伝わっています。
 奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が、妻が身籠ったお礼に熊野参詣した。
 秀衡はその旅に妻を伴う。
 本宮に参る途中、滝尻で、妻はにわかに産気づき、出産。
 赤子を連れては熊野詣はできないと、その夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより、滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続けた。
 子は、山の狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで、両親が帰ってくるまで無事に育っていた。
 この子が後の泉三朗忠衡(いずみさぶろうただひら)である。
 この熊野権現の霊験に感動した秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めたという。
【 wikipedia&み熊野ネットより抜粋 】



 










 





全員で大祓詞奏上
そして天から降ってきたのは♪




0 件のコメント:

コメントを投稿