2012年10月14日日曜日

熊野 : 蛭子神社(森浦)

次に向かったのは同じ音の蛭子神社。

蛭子神社 【和歌山県神社庁HPより】
祭神
  • 事代主神
    由来
  • 当社に現存する社殿棟札には「文化十三(一八一六)年寅九月」とあるので、少なくとも文化年代よりはるかに昔から、生産の神さま、特に漁業の神さまとして近隣の人々の信仰が厚かったということが伺われる。
    現在、「森浦地区住民の氏神さま」として祀られ、崇められている。
     紀伊続風土記によると、太地町森浦は那智荘の森浦村にあたり、 大田荘市屋村の東十九町許にあり、一小海湾なり、村の艮三町に元浦といふ所あり、村居旧其地にあり、元浦に糟森といふ山あり、村名是より起れりとある。
    村内に、「小祠一社」「小堂一宇」あり、この小祠一社が、蛭子神社であろう。
     与根川河口の沖積地に位置し、森浦湾に面し、太地との境の旦那山(城山)に泰地氏の頼子城があったと伝える。
     近世の森浦村は、太田組に所属し、村高は慶長検地高目録で、五三石、天保郷帳旧高旧領とも六二石、浅野忠吉領時代では高五三石余、家数一一軒であった。
    文政元(一八一八)年の森浦村郷帳によれば、村高五三石余、田畑反別田三町四反余、畑六反余、家数二〇軒、人数一三二名、船数七、網数六であった。
    (太地町史より) 半農半漁の性格を持ち、水主役を負担する浦方とされた。
     明治四年新宮縣を経て和歌山縣に所属、明治六年には、戸数三八戸、男一〇二名、女九八名であった。
    明治十二年東牟婁郡に属し、明治二十二年太地村の大字となった。
    明治二十四年には、東西一六町、南北一四町、戸数四二戸、男一二〇名、女一二七名、小船一六であった。
    大正十四年からは、太地町の大字となる。
     森浦の面する森浦湾は、湾口から湾央にかけてくびれ、湾奥の森浦は袋状になっており、湾底は粘土混じりの砂礫質で碇のかかり良い上に、三方を山に囲まれている為天候の悪い時でも波が静かである。
    帆船時代には、太平洋における屈指の良港として、台風襲来時期には熊野灘を航行する大小の避難船が一〇〇隻を超えて湾内を埋め、帆柱が林立したという。








  • なんとなくココで今日スタートからの一連の流れが読めてきたように感じた蛭子神社。

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