2011年9月18日日曜日

錬達叡々:番外編2 出雲見参!その4

2011.9.13~14 「神社おそうじ隊 見参! 番外編~出雲~」 その四

2011-09-22 | 神社おそうじ隊・番外編 出雲

朝。
この日も快晴



前日夜、プールの中で思いつき、
『朝の気功教室』をば。
僭越ながらご指南させていただきました。

とはいえ、F隊員とTa隊員には連絡行き渡っておらず…
私の不手際…大変申し訳ありませんでした



下の写真。
一見すると筋肉を「ストレッチ」しているように思えるかもしれませんが…そうではありません。
筋肉を伸ばし、弛ませるのではなく、脊椎(背骨)ひとつひとつの椎間(骨と骨の間)を開き、関節の
可動範囲をユルやかに拡げることを主眼として…ました
こうしたことも、またいづれご指南させていただく機会もあるでしょう。。。



海、空、太陽…
そこにあるすべてと、融け合うように…



…ここで、少し脱線。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「恐怖感」。
それは、おそらくは、人間にとって生きていくうえで必要な感覚であり、感情。
しかし、本来的に備わった、本能としての「怖れ」のうえに、たくさんの【錯覚】を重ねていってしまうのが、
現代の、この社会を生きている私たちなのかも、しれません。

実際にはまったく安全であるような場や環境であるにも関わらず、「このままいったら…」という
予期不安や「以前あったかも…」という過去のネガティブな記憶が一瞬にしてないまぜになり、
いまそこに「恐怖」という感覚、感情を創りだします。
そしてそれは、多くは自らにパターンとして形成されているもの。

では、その【錯覚】を【錯覚】として認識するにはどうしたらよいのか?

それにはまずは、その【錯覚】から目を背けず、しかと見ること。
それができれば、少なくともそこに囚われることは、なくなります。

こういうと「しかと見るにはどうすれば…」「それができないから困る…」となりますが
その場合は、そのアワアワした状況を、しかと見ることを習慣にすることから始めてみます。

いまある現状、「そこで起きていること」の確認、足元の確かさ、大地の感触…
心にあるマボロシではなく、いまその身その感覚に体感されるものを、認識すること。

【錯覚】は、どこまでいっても【錯覚】。
そうしていくことで、ここに気づけるかも、しれません。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

はい、脱線終わり




この朝のありがたい時間を経て、、、、、
向かうは「万九千(まくせ)神社」
「立虫神社」境内にあり、現在はこちらが本社で「万九千神社」は摂社ということになっている…。
このあたりは様々に都合があるようで、複雑です。。。



旧暦十月。
出雲でいう「神在月」に全国から集ったカミサマ方が、それぞれの御国へ戻る前に訪れる神社です。
「神等去出祭(からさでまつり)」というそうです。

「万九千神社」の御祭神は

櫛御気奴命・大穴牟遅命・少彦名命・八百萬神

「立虫神社」の御祭神は

五十猛命 大屋津姫命 抓津姫命

になります。





決して広くはない境内に多くの境内社が存在しています。
(秋葉社、金刀比羅社、大社、旅伏社、才ノ上社、大地主神、和田津見社、稲荷社、天照大神、馬繋荒神)


「大祓詞」を奏上。
規模は小さいながらも、そのご神威は…
私、ここで早くも気当たり状態


このあとも、すべてが濃厚かつ芳醇なる道行き。
本当に本当に、ありがたいことです。。。

0 件のコメント:

コメントを投稿