2013年6月14日金曜日

錬達叡々: 2013.6.5~6 神社おそうじ隊 見参!福島ご当地隊 その3



『岩代の國一之宮・伊佐須美神社』(楼門)。
第十代天皇崇神天皇十年、大和朝廷から派遣された四道将軍として,北陸道を北上した大毘古命(オオヒコノミコト)と,東海道を北上した建沼河別命(タケヌマカワワケノミコト) がこの地で会い、それを起源として相津(会津)の名が起こったと伝承される(「古事記」)。

御祭神は、伊弉諾尊・伊弉冉尊・大毘古命・建沼河別命
御祭神四柱を総称して「伊佐須美大明神」と奉称している。



2008年10月に拝殿、本殿、神楽殿などが焼失した。
現在は仮本殿で、

着工したらば…

となる予定だそうです…(かつての出雲大社がモデルかな)。


神鶏。

会津五桜のひとつ、「薄墨桜」。

天海僧正の手植桧。


ここから一挙に、舞台は猪苗代へ。

この
『小平潟天満宮』
「北野天満宮」「太宰府天満宮」と共に、日本三大天満宮の1つに称する見方もある。

「天暦二年(948)、近江国比良神社の神主・神良種は摂津国須磨で見つけた、菅原道真の神像を祀る地を捜す旅の途中、猪苗代湖畔に辿り着きました。良種はその地で休み、再び歩き出そうとしたところ神像が急に重くなり動かなくなってしまいます。よくみるとその地は須磨とよく似た景色でした。そのため良種はこの地は神像に選ばれた地と判断し、耶麻郡大領上毛野陸奥臣に申し出て天満宮を勧請したのです。このとき、小出方村という地名だったこの地は摂津国平潟にちなんで小平潟に改められました。」(ご由緒より抜粋)


「流造」という建築様式だそう。




この札に沿って歩くと…

鎮座されています。



神秘的でもあり、幻想的でもあり…。
眺めるだけで心穏やかになるような猪苗代湖畔。
その風景を心に沁み入るほど身近にする『TARO CAFE(タロカフェ)」でランチ。
カフェ好きの間では、知る人ぞ知るお店のようです。



もはや絶品のレアチーズ。

タロール。

シフォン。

濃厚ベイクドチーズ。


しばし堪能したあとに、目指したのは・・・ 


『土津(はにつ)神社』
会津藩主松平氏の祖、保科正之公を御祭神とし、相殿として三代藩主から九代藩主を祀っている。
正之公は、晩年に至るまで神道を尊信し、吉川惟足を師とし専ら卜部神道の伝を学び、道の奥義を極められた、とご由緒に伝わる。
寛文十一年(1671)、公は惟足から霊号を「土津」と奉られている。



境内に入るや、今回のご当地隊・Tさんに熱くこみ上げるものが…。
初めて参拝に訪れ、つい先ほどまで多くの神社のなかのひとつ、であったこの神社は、この時からTさんにとって特別な社(やしろ)となりました。
連綿たる意識の流れ、その顕れである「いま」という時空間のなかでスピリットは共鳴呼応するものなのだなと、改めて…。


奥宮へと。



そして、隣接している

『磐椅(いわはし)神社』
延喜式内社勅祀社・神階正一位・旧県社・陸奥国神従四位.会津総産土神として知られる。
御祭神 大山祇神・埴山姫命
相殿 木花佐久夜毘賣命・磐長姫命・品陀和氣命・息長足姫命

起源は古く、応神天皇の御代(弥生時代)の神功皇后摂政50(250)年、武内大臣の巡視の時に勅命を奉じ、大山祇神・埴山姫命国土開発のカミとして磐椅山[いわはしやま](現在の磐梯山)の頂上に鎭座。
その後、聖武天皇の御代(奈良時代)の天平元(西暦729)年8月25日、見祢山南麓の現在地に遷座したという。
保科正之公は、「余の没後は神道の礼をもって磐椅神社の神地に葬ってもらいたい」という遺書を老臣たちに与えたという。




会津五桜のひとつ「大鹿桜」。

天然記念物「鳥居杉」。

0 件のコメント:

コメントを投稿