2012年8月29日水曜日

近江 : 竹生島宝厳寺弁才天堂




竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。
行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻し、ご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置しました。
それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。
当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602年)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や唐門などを移築させています。
明治時代、この島は大きく変化し、当山より都久夫須麻神社(竹生島神社)が分かれました。古来、現在の神社本殿を当山は本堂とし、本尊大弁才天を安置しておりましたが、明治元年(1868年)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、当山を廃寺とし神社に改めよという命令が下りました。しかしながら、全国数多くのご信者皆様の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。
本堂のないままに仮安置の大弁才天でしたが、昭和17年、現在の本堂が再建されました。

 瑞祥水:深さ230m(湖底130m)より汲み上げられた地下水



本堂








 もちの木 :樹齢四百年、豊臣家ゆかりの木
三重の塔:江戸時代初期に焼失したと言われ、
約350年ぶりに復元された三重塔


「国宝」唐門 「重文」観音堂
豪華絢爛といわれた桃山様式の唐門の代表的遺構
内部は千手観世音菩薩を納めた観音堂



 豊臣秀吉の御座船の用材を用いて建てたという伝承から「船廊下」の称がある。



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